今回は、2009年に東京コレクションにデビューして以来、ミラノコレクション、パリコレクションと世界を舞台に第一線で活躍し続けるyoshiokubo (ヨシオクボ)デザイナーの久保嘉男氏にインタビュー。
世界的デザイナーになるまでの道のりから、デザインへのこだわり、新たな切り口での活動内容について詳しくお話を伺いました。
デザイナーになったきっかけ
※NewYorkアトリエ
ファッションデザイナーになったきっかけは生まれ育った環境が大きく影響をしていると思います。母親が裁縫を仕事にしていたため幼少期からファッションが身近にあり、家に積み上げられているファッション雑誌などをよく見ていました。
小学3年生のある日、父親から「デザインコンペに出てみないか」と背中を押してもらい、コンペに参加。結果、大きな賞を取れたわけではなかったんですが、「これが“デザインにする、形にする”ということなのか。」と、見ている側から作り手になることを体感した最初のきっかけでした。
その後、2000年Philadelphia University’s school of Textile & Scienceファッションデザイン学科卒業後、オートクチュールデザイナーRobert Danes氏のもと、約4年間ニューヨークでクチュールの全てのコレクションを共に作製し、デザイナーとしての経験と技術を磨きました。
※自身のアトリエ開設2004年4月13日memorial board
ブランド立ち上げから今日まで
これまでの海外での経験を生かして帰国後の2004年にブランドを立ち上げ、2005年S/Sより yoshiokuboコレクションを発表しました。ところが、これまで海外にいたため日本の知り合いやツテもほとんどなかったので、細い糸を一本一本手繰り寄せるような日々でした。今まで本当にたくさんの壁にぶつかってきましたが、当時が一番辛かったんじゃないかと思います。
縫製工場一つにしても日本のことは右も左もわからなかったので一社ずつ足を運んで探しに行きました。また、ブランドを立ち上げたところで無名なので誰も見にきてもらえず売上にも苦労しましたし、駆け出し当初は資金も潤沢ではなかったので、パターン、サンプル制作、DMからプレゼンテーション用の映像まで全て自分たちで手掛けていて、当時学生だった弟や友人などが協力してくれたのは本当にありがたかったです。
初めての展示会では自分でパターンを引き、半数以上は自分で縫って仕上げていました。初回の展示会で11件オーダーが決まった時は、本当に嬉しかったですね。
そんな中で、yoshiokuboの大きな転機は立ち上げから3年ほど経った2007年頃でした。
MEN’S NON-NO増刊号「MEN’S NON+NO G」の表紙で、歌手・俳優の木村拓哉さんの衣装として選んでいただいたことが分岐点となりました。表参道の駅に着いたら、yoshiokuboのシャツとジャケットを着た木村拓哉さんの特大ポスターが大きく貼り出されているんです。あの光景には驚きましたね。
着用いただいた服は爆発的な人気でしたし、yoshiokuboの名が広く知れ渡ることとなりました。その後、2007年S/Sよりレディースラインmuller of yoshiokubo(ミュラーオブヨシオクボ)、2008-2009F/Wよりメンズの別レーベルundecorated MAN(アンデコレイテッドマン)と、当時珍しかった計3ブランドを手掛けるようになりました。
デザイナーとして大切にしていること
yoshiokuboでは、今まで見た事のないパターンやディティールを追求したいと考えていて、クチュール時代に培った技術を駆使し、コレクションに投影しています。今でもパタンナーに依頼するのではなく大半は自分でパターンを引き、シルエットの美しさや着心地を探求しています。
幼少期からファッションが身近にあり、変遷を見てきたこれまでの40年以上があるからこそ、オリジナリティーのあるものづくりができていると自負していますし、世界で一番ファッションのことを知っているのは自分でありたいと思っています。だからこそ、デザイナーとしてクオリティーとアイデンティティーを大切にし、自分にしかできないものを生み出し続けたいんです。
ファッションショーって面白く見せなければならないエンターテイメント性が求められるので、カラフルさや形などの目に見える形で表現しなければならなりません。なので、服としての凝った作風と、着用する相手のことを考えた着心地の両方を大切にしています。
しかし、ある日お客様から「久保さんの服は最近シンプルになりましたね。」と言われたタイミングがありました。自分では常にこだわり続けて作っているつもりだったので、変だな。と感じて見返してみたところ、過去に遡るほどこだわり続けた自分を見つけることができました。
それを機に、自分が何をしたかったのかを見つめ直すきっかけになりましたし、これから更に、今まで見たこともないモノを生み出していこうと計画しています。
デザイナーとして発信し続けていること
自分がいいと思うものは自分を信じ、皆がやらないことをやってみたいし、失敗を恐れず挑戦してみたい。それをデザインとして発信していきたいと考えています。
当時はブランドを3つも展開しているデザイナーは少なかったのですが、経験値を早く積みたかったのでチャレンジし続けてきました。
その他にも、今までは1,000人を超える大箱などでショーを行ってきましたが、ある日ふと世の中を見渡してみたら、皆がファッション情報として見ているものってSNSなどデジタルの世界なんだと気がつきました。そこで、これまでやり続けてきたからという風習にこだわるんじゃなく、だったら今の時代の人たちにどんな形で届けられるかを考えてみたんです。
全てがとは言いませんが、最近は利益重視でデザインが量産化されているところも多く、日本全体のデザインの質が下がってきているように感じます。そんな今だからこそ、原点に戻り、新しい形で改めてファッションやデザインの魅力を広めていきたいと思い、中目黒のアトリエで130人ほどを招待した小さなショーを開催しました。
SNSでファッションを見ていても、実際にどうやって服がデザインされ、作られているかなんて裏側はみんな知らないわけで。SNSのようにもっと身近で、側にいるような感じを演出できれば面白いと考え、服を作っている場所でのショーに至りました。次は、デザインを生み出すとはどういうことなのかを伝えるために服が出来上がるまでの作業風景を24時間動画で流しっぱなしにしてみようと思ってアトリエも改装したんです。
デザイナーとして自分の感性を信じて、これからも新たなことに挑戦していこうと考えています。
世界から見たサスティナブルへの動きはいかがでしょうか?
そうですね、中国で服が溢れかえった生産現場を見たことや、ラナプラザでの事故※を機に、衣類の大量生産・廃棄問題について、世界中が考えなければならない時期にきていると思っています。
自分達はプレタポルテな分、受注生産が中心なので、もともと過剰な生産というものをやってこなかったんですが、ヨーロッパのブランドが10年以上前から取り組んでいたように、少しずつそういった活動をしている人たちから影響を受けて広がってきたんだなと感じています。
昔、2004年に起きたスマトラ島沖地震後に、落ちていた衣類で新たな服を作っている人を知ったことがあって。今後、世界中でそういった取り組みが広がっていけば嬉しいですね。
※2013年4月24日、バングラデシュの首都ダッカ近郊で複数の縫製工場が入った複合ビルが崩落。死者1,138人、負傷者2,500人以上を出す大惨事となった。
SMASELL(スマセル)の取り組みについて
「世の中のために役に立つか」「余ったものをいかに生かすか」という視点はこれからの時代に大切なことだと思っています。そういった意味でも、SMASELL(スマセル)の取り組みは素晴らしいですね。ビジネスにおける透明性が問われる中、サスティナブルというキーワードを単に利用するのでなく、真の意味でサスティナブルを追求したモールになってほしいと思います。
また近年、日本では海外で起きている社会問題を支援する動きが活発になっていますが、比較的豊かだと言われる日本にも一日三食、食事をとれていない人達が多くいます。ですので、そういった自国の課題にも目を向け、それらを解決するということにもぜひチャレンジしてみてほしいですね。
yoshiokubo×SMASELL
今後SMASELL(スマセル)とは、アップサイクルプロジェクトやデザインについての発信など、何らかの形で一緒に取り組んでいけたらと考えています。その際、「余っている衣類をいかにおしゃれに見せて再生するか」がキーになると思うので、長年デザインに携わり、培ってきた感性を生かすことができればと思いますし、皆んなにとってわかりやすく、参加しやすい手段で世の中にメッセージを発信していければいいですね。
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